『風と木の詩』竹宮恵子

” きみは わがこずえを鳴らす 風であった

 風と木ぎの詩が きこえるか

 青春のざわめきがーーー

 思い出すものも あるだろう

 自らの青春の ありし日をーーーーーー ”

 

f:id:in_the_sanatorium:20180808095624j:plain

(文:『FCコミックス 風と木の詩 17巻』 画像:『FCコミックス 風と木の詩 1巻カ表紙』より)

 

 

::::::::::::::::::

 

わたしの『机上』を紐解くにあたり、まずはこの作品について語りたい。

1976年から1984年にかけて連載された、竹宮恵子ロマンスの最高傑作。

 

19世紀末のフランスを舞台に繰り広げられる、喜劇とも悲劇ともつかぬ愛の物語。

それは正義と誠実の象徴たる少年セルジュと、愛の象徴たる華麗な美少年ジルベールの二人の忘備録である。

 

ラコンブラード学院の寄宿舎でルームメイトとして巡り合った二人の多感な青春劇から、物語はやがて彼ら二人の『真実の愛』を求める旅へと移換していく。

この物語において一貫し、そしてもっとも斬新であるのは『愛』と『誠実』がしばしば対立関係にあることだ。

この対立関係こそが、この物語の核といえるのではないだろうかと思う。

 

わたしの『机上』おいて、この作品は『未熟な青き聖書』のような存在である。

 

” 愛とは何か、正しさとは何か、幸せとは何か、不幸とは何かーーー?

 信頼とは何か、裏切りとは何か、善と悪のいずれが人の愛の本質なのかーーー? ”

 

そういったあらゆる人生の問いかけに対し、この作品ほど痛切に訴えかけてくるものはない。(少なくとも、わたしの問いに響いたものはない)

 

まだ同性愛が蔑視されていた時代に、最も純粋で高潔な少年同士の愛をこれほどまでに堂々と描いてみせた竹宮先生をわたしは敬愛してやまない。

たとえば、コミックス1巻の巻末でかの寺山修司「これからのコミックスは、たぶん「風と木の詩」以後という呼び名で、かわってゆくことだろう」と語っている。

それほどこの作品というのは同時代の少女漫画界では異端であったようだ(当時まだ自分が生まれておらず、その衝撃を目の当たりにできなかったのが本当に悔やまれる……)。

 

異色ーーーしかしだからこそ、この作品の輝きは今もなお色褪せることがない。

 

当時、男女の恋愛(恋から結婚への発展における苦悩)こそが正統とされてきた中、

この作品は『同性愛』『近親相姦』『売春』『監禁』『洗脳』『強姦』『恐喝』…そういう、夢みがちとは程遠いものばかりで構成されている。

だが、と、わたしは思うのだ。

それこそが真実、わたしたちの生きる世界と人間という生き物の本質なのではないかーーーと。

我々は愛について考察するとき、『人としての理想』というものに固執しがちである。

『人として』の美しさをいかに美しく切り出し、『人として』の汚れをいかに洗いながし、『人として』の忌まわしいものに幸せをうわ塗ちできるかに頭を絞りがちである。

それは完璧な理想の追求であり、それもまた人の性質であるとわかっている。

けれど実は、そんなものは『人として』生きている以上、今生ありえない。

なぜならば人は、人が思っている以上に未熟だからだ。

 

人は死ぬ間際まで熟すことがない生きもので、

死んでからはじめてようやく熟すことができる。

それまでは皆一様にいつまでも『人として』未熟なままであり、

きっと生きているうちに『人として』完熟することなどありやしない。

 

否、むしろ、生きているうちに熟すことができると思うのは傲慢だとさえ思う。

そういう傲慢がまず第一に『人として』未熟なのだ。

 

人ができることなんて、せいぜい死んで熟すまでの下準備くらいだろう。

よりよく熟せられるようにと栄養を蓄え、根を大地に深くはり、

ある日には梢によく風をうけ、ある日には葉によく光をあび、やがて夜には静かに呼吸する。

 

では、と、ここではじめてわたしは自身に問いかける。

人の熟せるための栄養とは?

大地とは、木とは、風とは、葉とは、光とはーーー夜とは?

 

結論、それはすなわち『愛』である。内心、なんとも陳腐だ、と笑ってしまう。

けれど結局のところ、なにもかもは『愛』なのである。

大地も木も風も葉も光も夜も、自然のすべては『愛』という概念の多様性を示唆している。

どこまでも茫漠とし、決して答えのない『愛』という巨大な存在。

自然のもたらした業に、人は永遠支配されている。

 

ーーーこの『愛』について最も純粋に見つめたいと願うとき、

「男」と「女」の違いというものはただただ無意味な牽制でしかない。

ひいてはモラルや善悪、固定観念や時代背景、そんなものの介入しえぬ不可侵の場所に『愛』の核は存在するーーーとわたしは考える。

 

だからこそ『愛』における物語には、まるで情け容赦のない卑劣な描写や、おぞましい禁忌を犯すが必要は絶対的に不可欠であったと思う。

 

「ぼくが知りたいのは ジルベールのからだじゃなくて心なんだ」(セルジュ/FCコミックス2巻)

「ぼくを否定する人間たち たとえそれがぼくを正しい道とやらに導こうとするものでも……ぼくは許さない。ぼくがなに者かも知ろうとせず そんなきたならしい思いで近寄ろうとするものなら なおさら。このからだの中へ引き込んでやる!!」(ジルベール/FCコミックス1巻)

 

またこの『愛』の問題において、誰しもが目をそらし続けてきた物事の象徴が、ジルベールの保護者であるオーギュスト・ボゥという存在だったのかもしれない。

彼と、セルジュとジルベールとの戦いというのはそのまま、

『愛』と『愛』の戦いであり、可逆性ある『善』『悪』と『正義』と『不義』の戦いでだった。

この戦いにおいて勝敗という観念は恐ろしいほどに無力であるーーーそういうことを、この作品は教えてくれた。

 

またこの作品に登場するその他人物たちも、皆、銘々悩みながらセルジュとジルベールを見守っていく。

 

「しょうこりもなくーーー人間てヤツはなぜこうも生きようとするんだろうな……非常にみっともないことだとオレは思うよ」(パスカル/FCコミックス10巻)

「…きみは恐れないと言うの!? 罪をおかすことを!」(カール/FCコミックス2巻)

 

わたしにはその、セルジュたちを取り巻く人々もひっくるめた『風と木の詩』の世界ひとつが、まるっと人の精神そのもののようであると思った。

 

『愛』はすべからく救済せられるべきだ。

『正義』はすべからく報われるべきだ。

 

この聖書的な人の願いに対し、未熟な青き春のすべてをもって問いかけたセルジュとジルベール

 

『未熟な青き聖書』ーーー彼らの聖書は、今でもまだ未完成のままだ。

そしてわたしはきっと、生涯、この聖書の完成する姿を見ることはないだろう。

 

 

『愛』における性別意識が革新されてゆく現代で、わたしたちはこれまでよりもより深く『愛』の本質について考えさせられることが増えたと思う。

そんな今だからこそ、わたしはこの『未熟な青き聖書』の精読をおすすめしたい。

生まれつつある現代の我々の『愛』の土壌に、彼らの古き忘備録はやさしい雨を降らせてくれることだろう。

 

 

::::::::::::::::::

 

『机上フィクションのすゝめ』について

『机上の空論』

 頭で考える分には成り立つし最もらしいが、実際は現実的でなく、まるでに立たない思考や理論

  

この言葉について、私はしばしば深く考えさせられる。

ーーーと言うのも、この慣用句の姿勢がなんだか排他的かつ閉鎖的に感じるからだ。

 

” 人の仮想世界に見られる、人の切実な理想 ”

 

この存在への探究心なくして現代文明があるか?

断じて言いいたい。答えは「否! 否! 否!」だ。

 

今を生きる人たちが絶えず消耗している電気ですら、元をたどれば全ては『机上の空論』だった。

……宇宙、神、科学、宗教。

そのどれをとってみても、はじまりは『机上』だっただろう、と私は思う。

これら空理空論の幻影を追い求めて、人の手で現実世界にくくりつけたからこそ、現在の我々がある。

 

ニュートンガリレオが築き上げた『古典力学』から、より深く、より耽美な夢想ロマンをもって、ボーアやシュレディンガー、ハイゼンベルグらにより生み出された『量子力学』ーーーこの『机上の空論』的ドラマを、人類はド根性で証明してのけた。

やがてこの仮想理論は、フィクションの域を飛び出して、今日の人類とは切っても切れない関係を持つようになる。

そうでなければ、今だに人類はオイルランプでほそぼそと活版印刷でも読んでいただろう。(まあ、それもそれで美しいけれども)

 

とはいえ。

 

この量子力学の誕生したとき、学者たちは揉めに揉めたらしい。

かの天才アインシュタインですら、この夢みがちな理論には管を巻いた。

神はサイコロを振らない

私が見ていなくても月はそこにある

こんなふうに言って、あまりにも現実離れした世界解釈に匙を投げかけたのだ。(気になる人はググるかユーチューブ見て)

が、最終的には他ならぬ彼自身の『一般相対性理論』によるパラドクスで量子力学が立証されることとなった。

 

無論この他にも、この量子力学を巡る論争には数え切れないドラマがあるのだが、それらに思い馳せるとき、私の脳裏にはいつも『机上の空論』という言葉が切なさをもってよぎる。

 

パラレルワールド、宇宙の誕生、量子のゆらぎ……。

聞くだけでドキドキしてしまうような、二次元にはお決まりになった設定もすべては量子力学者の『机上』(頭の中)からはじまったのだ。

現代の創作物を愛する者ならば『机上の空論』を安意に揶揄できないと思う。 

 

言ってしまえば『机上の空論』なんていうのは、世間知らずな引きこもりの戯言にすぎない。

「あーだったらいいな、こーだったらいいな」

人は年中そんなことばかりを考える生き物であり、眠っている間ですら想像世界に没頭セずにはおれない。なんとも、浅ましいほど貪欲だ。

そして思考と想像は、いわば本人だけしか覗き見ることのできないブラックボックスである。

机上(頭の中)からはみ出さなければ、どんなこともできるし、許される。

人はもっぱら、この性質を己の嗜好への探求や哲学に駆使してきた。

その悶々とした個人研究をブラックボックスから取り出して見せているのが、この世に存在するすべての創作物だ。

『創作』ーーーこれほどに官能的で、恥も外聞もない、むき出しの人為行為はないと思う。

だからこそ、文学をはじめとする『机上フィクション』はいつの時代も人を魅了してやまないのだろう。

 

けれど、こうも思う。

自分の『机上』を本当に理解している人間が、どれほどいるのだろうか?

ぜひ、みなさんにも自分の『机上』について考察してみていただきたい。

 

 ここでは私の嗜好研究に基づき、現代の人たちにおすすめしたい『机上フィクション』作品の紹介と、余談としての自論を掲載していく。

ときには非道徳であったり、反社会的であることもあろうが、包み隠さず語ろう。

これはあくまでも、私の『机上』の記録だ。啓蒙でも、布教でもない。

 

けれどもし、その中から少しでも皆さんの『机上』を理解するきっかけが見つかれば、それはそれで好いと思う。

 

 

砂城ちぐは