『机上フィクションのすゝめ』について
『机上の空論』
=頭で考える分には成り立つし最もらしいが、実際は現実的でなく、まるで役に立たない思考や理論。
この言葉について、私はしばしば深く考えさせられる。
ーーーと言うのも、この慣用句の姿勢がなんだか排他的かつ閉鎖的に感じるからだ。
” 人の仮想世界に見られる、人の切実な理想 ”
この存在への探究心なくして現代文明があるか?
断じて言いいたい。答えは「否! 否! 否!」だ。
今を生きる人たちが絶えず消耗している電気ですら、元をたどれば全ては『机上の空論』だった。
……宇宙、神、科学、宗教。
そのどれをとってみても、はじまりは『机上』だっただろう、と私は思う。
これら空理空論の幻影を追い求めて、人の手で現実世界にくくりつけたからこそ、現在の我々がある。
ニュートンやガリレオが築き上げた『古典力学』から、より深く、より耽美な夢想ロマンをもって、ボーアやシュレディンガー、ハイゼンベルグらにより生み出された『量子力学』ーーーこの『机上の空論』的ドラマを、人類はド根性で証明してのけた。
やがてこの仮想理論は、フィクションの域を飛び出して、今日の人類とは切っても切れない関係を持つようになる。
そうでなければ、今だに人類はオイルランプでほそぼそと活版印刷でも読んでいただろう。(まあ、それもそれで美しいけれども)
とはいえ。
この量子力学の誕生したとき、学者たちは揉めに揉めたらしい。
かの天才アインシュタインですら、この夢みがちな理論には管を巻いた。
『私が見ていなくても月はそこにある』
こんなふうに言って、あまりにも現実離れした世界解釈に匙を投げかけたのだ。(気になる人はググるかユーチューブ見て)
が、最終的には他ならぬ彼自身の『一般相対性理論』によるパラドクスで量子力学が立証されることとなった。
無論この他にも、この量子力学を巡る論争には数え切れないドラマがあるのだが、それらに思い馳せるとき、私の脳裏にはいつも『机上の空論』という言葉が切なさをもってよぎる。
パラレルワールド、宇宙の誕生、量子のゆらぎ……。
聞くだけでドキドキしてしまうような、二次元にはお決まりになった設定もすべては量子力学者の『机上』(頭の中)からはじまったのだ。
現代の創作物を愛する者ならば『机上の空論』を安意に揶揄できないと思う。
言ってしまえば『机上の空論』なんていうのは、世間知らずな引きこもりの戯言にすぎない。
「あーだったらいいな、こーだったらいいな」
人は年中そんなことばかりを考える生き物であり、眠っている間ですら想像世界に没頭セずにはおれない。なんとも、浅ましいほど貪欲だ。
そして思考と想像は、いわば本人だけしか覗き見ることのできないブラックボックスである。
机上(頭の中)からはみ出さなければ、どんなこともできるし、許される。
人はもっぱら、この性質を己の嗜好への探求や哲学に駆使してきた。
その悶々とした個人研究をブラックボックスから取り出して見せているのが、この世に存在するすべての創作物だ。
『創作』ーーーこれほどに官能的で、恥も外聞もない、むき出しの人為行為はないと思う。
だからこそ、文学をはじめとする『机上フィクション』はいつの時代も人を魅了してやまないのだろう。
けれど、こうも思う。
自分の『机上』を本当に理解している人間が、どれほどいるのだろうか?
ぜひ、みなさんにも自分の『机上』について考察してみていただきたい。
ここでは私の嗜好研究に基づき、現代の人たちにおすすめしたい『机上フィクション』作品の紹介と、余談としての自論を掲載していく。
ときには非道徳であったり、反社会的であることもあろうが、包み隠さず語ろう。
これはあくまでも、私の『机上』の記録だ。啓蒙でも、布教でもない。
けれどもし、その中から少しでも皆さんの『机上』を理解するきっかけが見つかれば、それはそれで好いと思う。
砂城ちぐは